バイレイシャルとして思うこと

日本に暮らすハーフとして、思うことを書いていくつもりです。主な目的は自分の思考の整理と、ハーフ・クォーターや多重国籍者、帰化人などが直面する問題、抱える悩みを理解してもらうことです。一歩ずつ住みやすい社会へ。

シン・ゴジラのカヨコ・アン・パターソンに思うこと

 自分は日本に暮らすオーストラリアと日本のハーフですが、日系三世のカヨコ・アン・パターソンという役の表現は怒りが沸くほどでした。素直に映画を見ると、「おばあちゃんの国」というセリフや、パターソンがイギリス系の苗字であることを考えると、カヨコは日系の三世というよりは、父母のどちらかが日本とのハーフであるクォーターです。ほとんど白人の見た目のはずであり、アメリカで暮らしていたのならば英語能力はネイティブレベルで日本語を勉強していたとしてもビジネスレベルでしょう。それに対して、実際に演じた石原さとみさんは完全に日本人の見た目であり、劇中の英語能力はとても低く、対して日本語は非常に流暢でした。これは、役の設定と著しく乖離しています。
 このような、ある人種や国籍の設定がある役と、その演者の乖離が大きいことは非常に大きな問題であると個人的には思っています。なぜならば、実際にいる人々のイメージが間違って伝わるからです。この場合では、アメリカで暮らす白人と日本人のハーフやクォーターは、劇中のカヨコのようなしゃべり方をすると思われかねないのです。そんな風に思う人はいない、さすがにフィクションと現実の区別はつく、という反論があるでしょうが、フィクション作品における描写の積み重ねによって無意識にステレオタイプや偏見というのは育つため、フィクションならば問題にならないという訳ではありません。「そもそも巨大不明生物が東京を襲うという信じがたい筋書を真面目に愉しむ作品である。カヨコ・アン・パタースンという如何にも嘘っぽいキャラクターだって楽しんでしまうがいい」と言う意見も聞きますが、巨大不明生物と違って、日本とのクォーターであるアメリカ人は現実に存在するため、シン・ゴジラにおける彼らを代表する役が「嘘っぽいキャラクター」だというのは大問題なのではないでしょうか。
 近年、人種問題やLGBTQなどのマイノリティーへの配慮に敏感になってきたアメリカやハリウッドでは、Representationという言葉がよく使われます。これは、映画の中にできるだけ多くの人種や人々を登場させるという意味だけでなく、ある人種や国出身の設定の役には、同じ背景を持つ俳優・女優に演じさせるという意味もあります。黒人の役は黒人が、白人の役は白人が、アジア人の役にはアジア人が、という具合です。なんてことのないようですが、つい10年前までは平気で日本人の役を韓国系アメリカ人が演じていたりしていました。例えばファインディングニモなんかもオーストラリアが舞台であるにもかかわらず、ほとんどの声優はアメリカ人であり、オーストラリア訛りはほとんど聞きません。近年では、このように映画の配役で人種や国への偏見が助長されることがないようにすることが重要と考えられるようになったのです。

 ですが、大作邦画のシン・ゴジラでは、アメリカ人を日本人が演じているのです。アメリカにも日本にもハーフやクォーターの女優・女優志望はたくさんいるにもかかわらず。なぜ日系・混血のアメリカ人の描写に混血の女優を起用しないのでしょうか?我々のような複雑なアイデンティティを持つ人を正確に描写することよりも、知名度のある女優を起用してライト層に映画を見てもらうことのほうが大事なのでしょうか?これが私がカヨコ・アン・パターソンという役を見た時に抱いた気持ちです。これは決して石原さとみさんが悪いわけでも、彼女の英語能力が問題になっているわけでもありません。キャスティングの問題とは言えるでしょうが、本質はもっと大きいスケールにあります。メディア、ひいては社会が、どのように人種を捉えるのかという問題なのです。しかし、ネットで検索をかけると問題になるのは石原さとみさんの演技力や英語力ばかりであり、それ以上踏み込んだ論は全く見ません。石原さとみがかわいいから問題がない、という的外れな簡単な意見もよく見受けられ、非常に落胆しています。
 マーケティングのために有名女優を起用する動機は分かります。しかし、マイノリティーとして、私にとってはとても重大な問題に感じたので、このように意見を述べさせていただきました。蓮舫議員の二重国籍問題や、ミス・ワールド日本代表が二年連続ハーフになり二人共ネット上で批判されている問題などによって、日本で暮らすハーフやクォーター、帰化人に対する注目がよくも悪くも上がっています。カヨコもおそらくアメリカで暮らす上で自分の出自による様々な困難を体験したと思います。多重国籍者やマルチレイシャルな人々が向き合う問題が認知され、克服するために努力されること、そして暮らしやすい社会が実現されることを願っています。

 まだまだ思うことはたくさんありますが、別の機会にペンを取りたいと思います。